人工知能の概念は,計算機が現実のものになると殆ど同時に台頭してきた概念で,1946年にPensylvania State 大学で真空管18000本総重量30tの最初の実用計算機ENIAC(Electro Numerical Integrator and Calculator)がJ. P. EckertとJ. W. Mauchly等によって開発された頃から既に人々の脳裏にあった事柄に纏わる時代背景を持った概念である。
計算機の歴史は1642年のPascalineにまでさかのぼれるが,現在我々の周囲にある計算機は,計算機にさせる仕事の手順をProgramと言うが,このプログラムを計算機自身に内蔵した形式(Stored Program System)のもので,初めに実用化を1946年に行ったENIACの開発に触発され,J. von Neumann(Princeton高等研究所)によりその概念が提唱されたもので,完成には手間取り,1952年にEDVAC(Electric Discrete Variable Computer)として開発されたものに始まる。この考えが,現在の計算機の主流でもある。
この開発の事実を見聞して,英国のM. V. Wilksは,EDVACの開発よりも早く,EDSAC(Electric Delay Storage Automatic Computer)を1949年に開発した。従って,歴史的には,M. V. Wilksの計算機が,現在のプログラム内蔵式計算機の初めということになる。
A. Turingの仮想計算機(Turing Machine:1936)
この仮想的計算機は現在の計算機の数学的模型である仮想の計算機(Turing Machine)についての議論を深め,計算機の可能性を考慮する大きな礎石を残した(1936)。
この時代は,N. WienerのCyberneticsの理論をはじめC. E. Shanonの通信における数学理論などの数学的定式化の動きが背景にあった(ともに1948年に発表)。
2001年宇宙の旅(Sinalio):Writen by Arthor C. Clarke
2001年宇宙の旅(Moovie):Directed by Stanley Cubrick
計算機利用の新しい概念に対して問題を提起している。Skinnerによると,人間の学習は全て刺激とそれに対する反応によって行われているとする。人間をとりまく環境が刺激を提供し人間がそれに反応するのだから,環境が学習を支配する決定的な要因となるとする。これをあまり突き詰めると,学習者である人間は環境の存在と比べて,非常に消極的な立場としてしか存在しないと言う少し不満な極論に至る。換言すれば,自発的な考えにたった行動というものは非常に成立しにくくなる。登場する計算機は「自ら学習し,行動する」形態をとる。Skinnerにたいする人間の学習に対する対峙的な存在といった意味あいを持つ。意志を持った計算機が登場するのが2001年宇宙の旅(Moovie)である。
一方,脚本の原作者であるClarkeは,最初に何処からか落ちてきたMonolithという一枚の石に,Teaching Machineの役割を担わせ,計算機HALがその末裔であるという立場をとる。
Skinnerは当初,計算機による教育CAI(Computer Aided Instruction)にたいして懐疑的であったと言われている。しかし,Skinnerの流れをくむドリル形式のCAIによって,成績が向上する事例は数多くある。但し,計算機を用いるこうした概念のCAIは,紙によるドリルとの本質的な差異を何処まで主張できるであろうかといった疑問は残る。
Skinnerと立場の異なる心理学者にDonald Normanがいた。Normanは,学習者が自ら学ぶべき機械(Learning Machine)と言い換えうる概念を持っていた。
SkinnerがHarvard大学で活躍していた頃の大学院生にTed Nelsonがいた。丁度,分岐型のCAIの勃興期であり,Nelson自身もCAIに深くかかわった時期があり,CAIの分岐システムに影響を受けて,後にNelsonは「Hyper Text」の概念に到達する。
CAIは,計算機の教育利用という概念の教育工学の研究から数少ない成果の一つである。CAIの形態は,(1)Simulation型と(2)問題解決型の2つに大別されるが,多くはSkinnerの「プログラム学習」の流れを踏襲するものである。
Micro CopmuterはMicro Processorの開発(1971年発売)により発展した。世界初のMicro Processorは日本人の嶋正利ら3人の功績によるものである(資料参照)。その5年後の1976年には,California 大学を中途退学した26歳のSteven Wazniackと21歳のSteven Jobbsが車庫でPersonal Computerの原型を作った。これが,個人利用の計算機の文化(?)の源流である。計算機の名前はApple IIと呼ばれ,会社を設立して会長になったJobbsは,経営強化を計るためにPepsi Colaの社長であるJohn Sculleyを引き抜いた話は有名である。JobbsとSculleyの2人の体制はしばらく継続するが,後に,JobbsはApple社をやめ,新しくNextという計算機を作る会社を設立し,Sculleyと袂を分かつことになる。
1950 | C. E. Shannonが計算機にチェスをさせることを考案(1997.7;CasparovとBlure Wave) |
1952 | 米国IBMのA. SamuelはCheckerゲームのプログラム研究を開始する |
1952 | Connecticut州のCheckerの優勝者を負かした。(1960年代半ばまで,Chessと囲碁のプログラム開発が盛んに行われた。) |
1956 | Dartmouth大学(米国)で,J. McCarthy, M. Minsky, C. E. Shannon, RochesterらによるDartmouth Conferenceが開催会議では,何も決定されなかったが,「人工知能(Artificial Intelligence)」なる用語が初めて用いられた。 |
1957 | 米国Carnegie-Melon大学のH. A. Simon, A. Newellが数学の定理を証明する「論理学者(Logic Theorist)」なるプログラムを開発
LTは,「数学原理」(by A. N. Whitehead, B. Russel)のBool代数の52個の定理の内,32個を証明できた。このLTは記号を取り扱う最初のプログラムであった。 |
1958 | J. McCarthyにより人工知能言語と呼ばれているLISP(List Processor)にを開発LTの記号を扱えるという部分はこのLISP開発に大きな影響を与えた。 |
1959 | H. A. Simon, J. Shaw, A. Newellが多目的に応用できる「一般問題解決プログラム(General Problem Solver: GPS)」を開発Hanoiの塔,不定積分,宣教師と人喰い人種,構文解析等の処理を扱えた。 |
1954 | Jorge Town大学で,機械翻訳の公開実験が行われた
米国やソ連あるいは日本でも機械翻訳の試みが多数なされたが,単語の用法には多様な意味が含まれ,文脈からはどの単語を選択するかが決まらない等と言うことが判明してきた。1960年には,当初の流行は下火になる。 |
1965 | 機械翻訳の可能性を否定したPias報告書が,米国の議会に提出されたその反動として,人工知能批判が様々な分野・領域で噴出することになる |
1966 | MITのH. L. Dreyfusは人工知能を「現代の錬金術」であると批判するDreyfusはその後も非常に活発に人工知能批判を展開し,「計算機に何ができないか?」という書籍を発行する。
就中,G. Batesonの「精神と自然」などは,著者の広い学識と人間の本質にせまる名著である。 |
1969 | DENDRALが開発される
(背景)1960年代に入り,人工知能は現実の知的な活動を解くことができないという認識が次第に形成されていった。解決するためには「知識」が必要であるとの結論に気が付いてきた。そ先駆けとして,Stanford大学のE. A. Feitgenbaumを中心としたグループである。化学の領域で,未知の化合物の構造を決定する方法のプログラムにおいて,化学者が経験として蓄えている膨大な知識を利用することが組み込まれました。これは,質量分析のデータから,未知の化合物の構造を決定することのできる機能を有したもので,DENDRALと呼ばれている。こうした,専門家の知識を蓄えつつ様々な分野の専門家が行うことを計算機に処理させるプログラムのことを,「Expert System」と呼ぶ。 |
1977 | Feitgenbaumが人工知能国際会議で,「知識工学(Knowlege Engineering)」を提唱
(新規概念)1965年から1970年代後半にかけて,生成規則(Production Rule),述語論理,意味ネットワーク,フレーム理論等の知識表現の方法が確立され,これにより,知識の利用が多くの分野での普及につながった。 |
1971 | MITの大学院学生T. Winogradにより意味理解を処理できる言語の理解を行えるプログラム(SHRDLU)が作成される |
1972 | フランスのMarceille大学のA. Colmerauerらにより,PROLOG言語が開発
(参考) PROLOGは,1982年に日本で組織された通産省の国家プロジェクトである「第5世代コンピュータ開発計画」の中核言語として位置づけられた。 |